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6日に礼文町を出発した原水爆禁止国民平和大行進(北海道―東京コース)が17日、札幌に入り、江別市から引き継いだ幹線コースをはじめ、今年新たに加わった手稲コースなど6コースで札幌網の目行進が取り組まれました。
冷たい風雨の中、約500人が全体集会を行う中島公園をめざして歩きました。
清田区では新婦人、年金者組合などでつくる実行委員会が主催して清田区平和行進が行われました。
寒さと風雨にもかかわらず、40人を超える人たちが参加、「核兵器をなくそう」「原発ゼロを」などと書かれた横断幕やビニール傘、のぼりなどを手に、平岡の東光ストア前から地下鉄大谷地駅前まで行進しました。
行進に先立ち、「日本海北コース」(幌延→札幌)の「道内通し行進者」の一人、鈴木猛さん(年金者組合清田支部書記長)は、「初訪問の自治体首長や議長さんも反核国際署名に応じてくれました。ある議長は『自分は自民党だが安倍総理の集団的自衛権容認は許せない』と。大いに頑張りましょう」と話しました。また、日本共産党清田区市政相談室長の吉岡ひろ子さんは、「青い空は」(小森香子作詞)の一節を紹介。「核兵器も戦争もない平和な世界を残すのが私たちの務め。集団的自衛権行使容認は日本を再び戦争する国にすること。政府の見解一つで若者を海外の戦場に送ることを可能にする『憲法ハイジャック』は許せません」と話しました。
各コースが集結した中島公園での全体集会では、通し行進者の山内金久さん(65)が「どこの自治体でも歓迎された。みなさんの半世紀を超える平和行進の取り組みが自治体を動かしていると感じます」と話し、もう一人の通し行進者、山口逸郎さん(82)と共に東京まで歩き抜く決意をのべました。
また、被爆者の服部十郎さんは「今、戦争への足音がどんどん近付いている。原爆も原発もいらない。平和な日本を守るため、一緒にがんばりましょう」と訴えました。
毎年新婦人清田支部の会員が中心の「上映する会」で取り組む映画会。今年は「ペコロスの母に会いに行く」。
深刻な問題とされがちな介護や認知症。でも漫画家・岡野雄一は認知症の母との日常を『ペコロスの母に会いに行く』で描き、感動を呼び、巨匠・森崎東監督が人情喜劇映画に。
7月12日(土)、清田区民ホールで2回上映です。前売は大人1000円(当日1100円)、学生以下は前売・当日とも500円。詳細は同「上映する会」へ(080‐4507‐7666)。
吉岡ひろ子清田区市政相談室長と清田区日本共産党後援会は20日朝、国道36号線沿いの真栄バス停前で早朝宣伝を行いました。
これには後援会員ら6人が参加、自民党と公明党が集団的自衛権行使に向け与党協議を開始したとあって、通勤、通学の人たちに、「集団的自衛権行使容認は日本を再び戦争する国にすること」「解釈改憲で憲法9条を踏みにじることは許されない」と、安倍首相の暴走を厳しく批判しました。
吉岡さんはまた、札幌市が福祉灯油の実施を拒み、生活保護の申請用紙を窓口に置かないなど、弱者に冷たい市政であると指摘し、市民が安心して住める札幌市にするために共産党への一層のご支援を、と訴えました。
原発問題全道連絡会は、首都圏反原発連合の九州電力川内(せんだい)原発再稼動反対―官邸前・国会前抗議行動に呼応して、川内原発、泊原発再稼働反対の連帯行動を呼びかけています。
6月1日(日)13時から45分まで、大通公園西3丁目で、川内原発・泊原発の再稼動反対の宣伝と、原発のない北海道の実現を求める「全道100万人」署名行動に取り組むとしています。
6月6日、原発の再稼働に反対して続けられている道庁前金曜行動が100回目を迎えます。九州電力が川内(せんだい)原発再稼動を申請し、安倍政権が世論に反して原発再稼働推進に前のめりになっているいま、従来以上に成功させることが期待されます。
年金者組合清田支部の書記長を務め、清田区のうたごえ「クリスタル」でも活躍する鈴木猛さん。その鈴木さんは、2014年国民平和大行進の6本ある道内「網の目コース」の一つ、幌延から札幌まで10日あまりかけて歩く「日本海北コース」の「道内通し行進者」として17日、終着点の中島公園に到着。通し行進は通算6回目です。
1945年8月15日生まれ。侵略戦争を進めた日本が連合国に降伏した、その日です。
「原爆が落とされた年、終戦の日に生まれたせいか、平和な日本を、という思いが強いです」
北見市で国鉄の運転士をして働いていた20代初めから平和運動に参加。平和行進にもよく参加していました。
「平和行進の歌がほしい」と思い立って作詞した行進曲「広島へ 長崎へ」。いまや全国各地で歌われ、中央実行委員会作成のテープにも収録され「リズムがいい」と好評です。
過日、平岡九条の会と長沼に野呂栄太郎碑を訪ねた。それはよく手入れされた小公園の木立に囲まれ我々を出迎えた▼今年2月、地元党地区委員会などによる没後80年の碑前祭が行われ「戦争できる国にしない」と誓い合ったという▼「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という明治憲法下で、日本は敗戦まで絶対主義的天皇制のもとにあった▼野呂は北海中学(現北海高校)から慶應へすすみ、産業労働調査所設立に参画。27歳にして『日本資本主義発達史』を著し日本社会を分析、変革の展望を示した理論家であり党指導者であった▼野呂は天皇制と侵略戦争に反対したため1934年、特高の弾圧を受け留置所で死亡。33歳の若さでだ。未来を、「後に続く者」を信じていたに違いない。(さ)
「清田区新聞」14年05月25日付より